日記帳と散らかった部屋とネームの山と。

そういえば日記帳を切らしてたな、と夜勤帰りにコンビニに寄ってノートを買った。日記帳、と言っても手書きでリングノートに書いているのもので、数日忘れていて記憶を引っ張り出しながら書いたり、ただ一言「眠い」とだけ書いてある日もあったりするのだがこれがかれこれ十年以上は続いている。特に紙にこだわっているとかが理由ではないのだがそれまでの惰性でなるべく同じノートを買ってしまう。が、最近は何故か同じノートが近場の文具屋やホームセンターに見当たらない。今更変えるのも癪だなと思っていたところ近所のコンビニで見かけた時の喜びは大きかった。このノートをコンビニで買うのもなんだかんだ2、3度目になる。どこか別のノートを売っているところを探さなきゃな、と思いつつ未だ見つからずというより探すことを忘れてしまい結局コンビニで買うことを繰り返している。

 

 

帰ってきて軽く食事をすませ自室に戻るとまあ部屋の散らかっていること。ふとそう感じたのだが乱雑としたその様は見慣れたもので正直な話、数年単位でこの状態だ。片付けなきゃな、と思っても結局手を付けられずにいる。ただ少し、ゴミのひとつでも捨てられたら良しとしてしまおう。その思いから大した片付けをせずに良しとしてしまっている。過去のことを振り返る余裕が無い。向き合って考えたいのだけどあまりに重く膨大過ぎてそれに向き合う心境になれず、かといって軽率に手離すことはできない。自分の心情もこんな感じなのかもしれない。

 

 

 

この散らかった部屋で日記帳はどこにしまったのだろう。

 

 

 

そうやって散らかった部屋を見ないふりをして今を残したいとばかりに今日の分の日記を書き、シャーペンで落書きをし、漫画を描きたいとネームを切っていく…。ばらけた紙は部屋に散らかり追いきれなくなれば更に重さを増していくのだろうに。

いつからだったろうな、部屋が散らかりっぱなしになったのは。いつからだったろうな、心がぐしゃぐしゃになったのは。

 

 

多分、散らかってるのが落ち着くんだ。ここにあるのは全部自分のものだから。もう親には干渉させないこれらは全部僕の物。散らかった有象無象のそれらはあの時抱えていたかったものだから。そう思うと安心する。

 

 

とはいえいい加減、そろそろいるものいらないもの整理して手離さなければならないとは思っているんだけどすっかり散らかりきった部屋でそれができなくて。まだ親が見ているんじゃないか、手を出してくるんじゃないか、と思ってしまう。手離そうとしたものに口を挟んでくるんじゃないかと怯えている。何を持つか手離すか、欲しいものを手に入れようが捨てるも捨てないも僕の自由であって口を挟まないでほしい。いや恐らく他愛もないことに今更口を出してくることはないのだろうけどそれでも僕は何か言われるかと思ってしまって怖いんだ。

それでもこの数日、少しでも片付けようとは思えているのでくだらないなかのくだらないものくらい手離せよと少しずつゴミ箱に入れている。このブログを書いている辺り状況は芳しくないのだが。

 

生きてるだけで手一杯。荷物減らせば楽になるって言うけどどうしたら減るのかな。なんて思いながら。大事なものが分からないけどみんなみんな大事なんだ。その大事なものを大事過ぎてぐしゃぐしゃと握りつぶしてしまっているのかもしれない、すまぬな。みんな大事なんだ、本当に大事なものが分かるようになるまで許してください。

 

とりあえず今描いているネームたち。

 

さて、まだ夜勤残ってますしそろそろ寝ましょうか。

因みに今日の日記は未だ書いていない。